1931年の宮沢賢治さんを研究しています。
この年2月、賢治さんは東北砕石工場で嘱託の職員になり、
岩手県東山町産の石灰岩を原料とした肥料の営業活動をします。
岩手県内はもちろん、宮城県、秋田県とセールスに歩き……
その間、ずっと見据えていたのは『東京』。
9月に念願かなって東京出張しますが、
持病を悪化させ、成果を出すことができないどころか、
命が危うい状態になります。
11月、病床にあって『雨ニモマケズ』が
手帳に書きつけられますが
体のままならない病状で
2年後に亡くなります。
長らく東山町と宮沢賢治の関係については、
遺族に忌むべき思い出の地とされ、
その関係が見直されたのも2000年代に入ってからです。
1931年の出来事は、
賢治さんの仏道修行「自己犠牲精神」のように捉える研究者もいらっしゃいますが、
私の考えは違います。
長らくその視点で考察してきたのですが、今となっては違和感。
修行として自分を犠牲にしているにしては、どこか言い訳があるのです。
それは、言ってしまうなら「東京への執着」です。
時に、使命や義務よりも自分の想いを優先して
気持ちが向かっている先は『東京』。
そこから垣間見えるところに、綺麗ごとで語られる聖人としてではなく、
人間としての欲求、東京の魅力が見えてくるようです。
そうして、欲にまみれた中で必死に尊くあろうとするから、
その作品が多くの人の胸を打つのかと。
最晩年の1931年を研究するということは、
避けようもなく「それまで」が関係してきます。
長くはなりますが、
都度振り返り振り返り考察していただけたらと思います。
賢治さんの生涯にわたる東京滞在は、9回。
主たる目的は以下のようになります。
- 修学旅行
- ドイツ語夏期講習受講
- 家の用事
- 妹トシの看病
- 家出
- 売り込みを言いつけに
- チェロとエスペラント
- 大島へ
- 東北砕石工場社員として出張