実は賢治さんが来たかもしれない川崎市。
『幸区にゃんだふる通信』は2018年時点ではノートに記載したスケジュールだったのですが、発行スケジュールに変更がありました。
区内全小中学校に配布していることから、発行月に一か月づらし対応があったそうです。ハロウィン、川崎は一年で一番の重要行事ですね。
熱く前置きが長くなりました。本題はここです。
宮沢賢治と川崎市
惣之助の墓
佐藤惣之助は、現在、幸区の正教寺というお寺で眠っています。こちらのお寺、『正教寺前』というバス停が目の前にあるので、地元民にとってはお馴染みの名前です。
佐藤惣之助(さとうそうのすけ)、何をした人かと言いますと、昭和初期を中心に活躍した有名作詞家です。
2020年度前期放送のNHK「連続テレビ小説」『エール』の主人公のモデル作曲家:古関裕而(こせきゆうじ)とは「阪神タイガースの歌」(はんしんタイガースのうた)、通称「六甲おろし」(ろっこうおろし)を作っているのですが、果たしてドラマには登場してくれるのでしょうか…?幸区民期待大。
生前の佐藤宅『詩の家』
詩人同士の交流と、そこから同人誌を発行することを目的に、佐藤宅は『詩之家』と名付けられました。売れっ子詩人が自宅で有名無名に関わらず詩人と交流し、冊子を出そうとしている……ここでおや?と思ったのです。こんなチャンスが転がっていそうなサロンのお仲間に入りたい人を私は知っているからです。
宮沢賢治は『詩之家』のお仲間に入りたかったのでは?
宮沢賢治の学校の先輩・石川啄木も俳人で身を立てたくて、渋谷の与謝野家に行ってました。当時は、売れている同業者の先輩を訪ねるのがデビューとしてのセオリーだとするなら、可能性はあります。
物理的には訪問可能です
佐藤惣之助宅は現川崎信用金庫本店。川崎駅東口を出て5分とかからない場所にあります。ここを『詩之家』として開放し、後進の育成をしていました。
こちらは川崎区。お墓のある幸区とは駅を挟んで反対側になります。
お寺の移転や統合で惣之助さんのお墓は幸区に来ることになったようですが、ちょっと気になっているのは「日蓮宗」だったことです。生前から惣之助さんが日蓮宗の檀家さんだったなら、それだけでも賢治さんと話が合いそうです。
賢治は川崎に来たのか?
『新校本宮澤賢治全集』「年譜」1926年の項に堀尾青史氏が書いたとされるこんな一文が。
十二月〔推定〕 十二月の滞京中に本郷区駒込千駄木木材町一五五番地に高村光太郎を訪問したと推定。なおまた、川崎の佐藤惣之助のもとも訪れたか。
賢治さんが高村光太郎宅を訪問した時、先客に「銅鑼」の同人 手塚武がいました。
「銅鑼」は、草野心平が主宰して賢治さんも参加していた同人誌。「銅鑼」を通してお互いを知っていたものの、この時がお互い初対面でした。堀尾青史が校本全集年譜に記載した情報は、手塚武によってもたらされました。
〔推定〕でこれ以上の手掛かりが無いという……。賢治さんの川崎訪問や佐藤惣之助との接点の有無については、物議を醸しています。
それでも、この説は根強いのです。
1926年、別件でも近くまで来ていた。
1926年(大正15年)は、賢治さん30歳。羅須地人協会時代です。チェロを持って上京。12/4~30までチェロやエスペラントを習って…という優雅な状況。偶然にも、暮れには昭和元年の瞬間を東京で迎えていることになります。
TBSのドラマ「天皇の料理番」で佐藤健が演じる篤蔵が直面した大正天皇の崩御、病の床に伏していた妻の黒木華が演じる俊子が亡くなる直前の年越し……この時、賢治さん東京に居たんだよなぁ……と、思いながら視聴していました。
チェロのレッスンは大田区
「セロ弾きのゴーシュ」を彷彿とさせますが、賢治さんは無謀にも3日でセロ(チェロ)をマスターしようとしています。大津三郎の個人宅で個人教授を受けます。その場所が調布村字嶺(大田区千鳥町)。大田区と川崎区は多摩川を挟んで向かい合っていて、すぐそこなのです。
もし、佐藤惣之助の日記があったなら
佐藤惣之助関連の展示が川崎市であるたびに、「佐藤惣之助の日記とか無いんですか?」と尋ねているのですが、今のところ良い反応をいただいたことはありません。
1926年(大正5年)12月18日または20日。惣之助さん側に何らかの記録があれば、この問題に決着がつくのでしょうが……長生きしてみるしかありませんね。
後日記
2018年に記事を書いた後、翌年2019年2019年10月12日に台風19号が襲来。多くの貴重な資料を保管している川崎市市民ミュージアム収蔵庫が水没しました。佐藤惣之助さん関連の資料も、所有は川崎市市民ミュージアムです。館の機能回復を待つとともに、血税で収集した貴重資料の置かれていた状況については怒りを感じています。
外部リンク
私がまだ佐藤惣之助サイドの資料で現物確認できておりませんが、浜垣さんのサイトで佐藤惣之助が1924年(大正13年)12月刊行の詩誌『日本詩人』の、「十三年度の詩集」という一年を回顧するコラムで賢治さんを取り上げているという記事を拝見しています。同時代に賢治さんを理解者が詩壇にいたことになります。ただ、「詩之家」に賢治さんが出入りしていたなら、もっと世間に出ていたことになるでしょう。佐藤惣之助絡みで明らかにするのは「一回の接触があったかどうか」の有無で、継続的な川崎への出入りが無かったということは確定な感じがします。