つづきです。
田野畑(たのはた)駅

田野畑駅に着きました。大きくて立派な駅舎!

「カンパネルラ」の愛称もついています。

駅のすぐそばに「発動機船 三」の詩碑がありました。上に発動機船が乗っていて可愛い!
詩碑3「発動機船 三」

発動機船 三 宮沢賢治
石油の青いけむりとながれる火花のしたで
つめたくなめらかな月あかりの水をのぞみ
ちかづく港の灯の明滅を見まもりながら
みんなわくわくふるえてゐる
・・・・・・水面にあがる冬のかげらふ・・・・・・
もゝ引ばきの船長も
いまは鉛のラッパを吹かず
青じろい章魚をいっぱい盛った
樽の間につっ立って
やっぱりがたがたふるえてゐる
うしろになった魹(とど)の崎の燈台と
左にめぐる山山を
やゝ口まげてすがめにながめ
やっぱりがたがたふるえてゐる
・・・・・・ぼんやりけぶる十字航燈・・・・・・
あゝ冴えわたる星座や水や
また寒冷な陸風や
もう測候所の信号燈や
町のうしろの低い丘丘も見えてきた
羅賀で乗ったその外套を遁(に)がすなよ

この詩は
大正一四年(1925年)一月七日
三陸地方を訪れた宮沢賢治が
貨客船羅賀丸でこの地から
宮古に向かった時の三つの作品の
内の一篇です
(発動機船 一)はこの駅の東側に
(発動機船 第二)は島越駅に
詩碑があります
賢治出航「羅賀」説です。
「発動機船 一」の舞台が先週ご紹介した「ネダリ浜」とする説と、ここ「羅賀」の説があり、その根拠が「発動機船 三」に「羅賀で乗ったその外套(の人)」と出てくるので、その前の乗り込むシーンの「発動機船 一」は「羅賀」だとする説が書かれています。

石碑は、裏側に建てた経緯や思いが書かれていることもあるので、裏も要チェックです!

駅の中に次の詩碑がある「本家旅館」の写真がありました。旅館は現在閉業とのことですが、詩碑があるので行ってみたいと思います。

三陸鉄道の車両の形をしているのが「ひらいが水門」です。奥に進むと平井賀漁港。水門の左側にある黒い建物が閉業した「本家旅館」です。
旧本家旅館

旅館の敷地から平井賀港を見渡すことができます。
詩碑4「発動機船 一」

発動機船 一
うつくしい素足に
長い裳裾をひるがへし
この一月のまっ最中
つめたい瑯玕(ろうかん)の浪を踏み
冴え冴えとしてわらひながら
こもごも白い割木をしょって
発動機船の甲板につむ
頬のあかるいむすめたち
……あの恐ろしいひでりのために
みのらなかった高原は
いま一抹のけむりのやうに
この人たちのうしろにかゝる……
赤や黄いろのかつぎして
雑木の崖のふもとから
わづかな砂のなぎさをふんで
石灰岩の岩礁へ
ひとりがそれをはこんでくれば
ひとりは船にわたされた
二枚の板をあやふくふんで
この甲板に負ってくる
モートルの爆音をたてたまゝ
船はわづかにとめられて
潮にゆらゆらうごいてゐると
すこしすがめの船長は
甲板の椅子に座って
両手をちゃんと膝に置き
どこを見るともわからず
口を尖らしてゐるところは
むしろ床屋の親方などの心持
そばでは飯がぶうぶう噴いて
角刈にしたひとりのこどもの船員が
立ったまゝすりばちをもって
何かに酢味噌をまぶしてゐる
日はもう崖のいちばん上で
大きな榧(かや)の梢に沈み
波があやしい紺碧になって
岩礁ではあがるしぶきや
またきららかにむすめのわらひ
沖では冬の積雲が
だんだん白くぼやけだす

詩碑の裏面に賢治さんが羅賀の平井賀港から南下した説が書かれています。田野畑村の賢治詩碑は3基とも賢治生誕100年の年(1996年)に建立されました。
島越(しまのこし)駅

島越駅前の島越ふれあい公園です。公園内に宮沢賢治詩碑「発動機船 第二」とともに建っている慰霊碑は「 明治・昭和大津波追悼記念碑 東日本大震災津波記念碑 慰霊碑」です。
詩碑5「発動機船 第二」

発動機船 第二 宮沢賢治
船長は一人の手下を従へて
手を腰にあて
たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く
さっき一点赤いあかりをふってゐた
その崖上の望楼にむかひ
さながら挑戦の姿勢をとって
つゞけて鉛のラッパを吹き
たうたうたうたういきなり崖のま下から
一隻伝馬がすべってくる
船長はぴたとラッパをとめ
そこらの水はゆらゆらゆれて
何かをかしな燐光を出し
近づいて来る伝馬には
木ぼりのやうな巨きな人が
十人ちかく乗ってゐるたちまち船は櫓をおさめ
そこらの波をゆらゆら燃した
たうたうこっちにつきあたる
へさきの二人が両手を添へて
鉛いろした樽を出す
こっちは三人 それをかゝへて甲板にとり
も一つそれをかゝえてとれば
向ふの残りの九人の影は
もうほんものの石彫のやう
じっとうごかず座ってゐた
どこを見るのかわからない
船長は銀貨をわたし
エンヂンはまたぽつぽつ云ふ
沖はいちめんまっ白で
シリウスの上では
一つの氷雪がしづかに溶け
水平線のま上では
乱積雲の一むらが
水の向ふのかなしみを
わづかに甘く咀嚼する
この詩は、
大正十四年(一九二五年)一月七日
三陸地方を訪れた宮沢賢治が
貨客船羅賀丸で この地から
宮古に向かった時の三つの作品の
内の一篇です 五十行の作品ですが
宮沢清六氏のご承諾をえて
一部を省略しました
<発動機船一>は田野畑駅の東側に
<発動機船三>は田野畑駅に
詩碑が有ります

田野畑駅の「発動機船 三」と同じタイミングで建てられた双子の詩碑ですが、こちらの詩碑は東日本大震災で被災して破損。上部についていた発動機船の飾りも流されてしまいました。

詩碑とともに、被災直後の様子が伝えられています。島越駅は東日本大震災により被災し、津波により、駅舎・ホーム・高架線路の全てが流失しました。

島越駅は旧駅舎所在地の約100m北に再建されました。
唯一の賢治の海路を体験する方法

島越駅から海沿いに南下すると、観光船「北山崎断崖クルーズ」があります。島越港から北山崎の断崖下まで約50分かけてぐるりと一周するツアーを体験できます。

今、海路で南下する定期船はありません。賢治さんのように、リアス海岸の断崖絶壁を海から見る体験をするなら、「北山崎断崖クルーズ」が唯一の手段になります。…船が苦手な私は怖気付いています。賢治さんの足跡に岩手三陸だけではなく北海道、大島…と、船がたびたび出てくるのですが、酔わない人だったということでしょう。
つづく




