銀河鉄道じゃないほうのSLの話<7>の続き。
こちらの書籍をベースにしての検討です。
「C」と「D」を連発していますが、基本的なことを確認します。
「車軸配置による分類」Wikipediaからの抜粋です。
動輪径を大きくすれば同一回転速度で運転速度を高くできるが、機関車全体が一定の長さに収まるようにするには、動軸数を減らすことになり、牽引力が低下する。そのため、高速が要求される旅客列車牽引向けということになる。逆に動輪数を増やせば牽引力は増すが、その分動輪径は小さくせざるを得なくなり、速度性能が犠牲になることになるため、貨物列車牽引や急勾配区間向けということになる。
つまり大前提として、車体の長さが変えられない中で、車輪の増減で性能をコントロールしていることになります。
- 「C」は動輪が3軸(片面○3つづつ)
3輪…動輪が少ないほうが直径を大きくできるので、トルクが少なくても速度が出る。→客車用 - 「D」は動輪が4軸(片面○4つづつ)
4輪…動輪が多いほうがトルクが強い代わりに速度があまり出なくなる。そして車輪が多いと、地面の密着力が強くなるので滑りにくい。→貨物用
C/Dという名称が登場する前
C/Dという名称は1909年に制定されました。車体数が増えていく中で、数字での管理が厳しくなり、1928年10月1日にアルファベットでの分類に移行しました。
86系→C形へ
96系→D形へ
以上が国産について。
輸入車もある……。
自動車でも国産車両だけでも理解しきれないのに、輸入車もあるという状況と一緒。しかし、1931年(昭和6年)のSL事情は国産車優勢のご様子。1931年の長距離列車については、国産だけと理解して良さそうです。後程詳しい理由を書きますね。
では、コツコツと機関車配置表(昭和6年1月現在)を見ていきます。
ようやく本題に入ります。
北から……(上り)
盛岡運輸事務所
盛岡機関庫
2128,2160,2161,2163,2175,2179,
18636,18643,39616,39661,39666,39667,39668,39669,59630,69601,69602,
69603,69604,69607,69531,69661,69663,69655
C5152,C51119,C51120,C51121,C51153,C51154,C51155,C51192,
黒沢尻機関庫
59632,59664
まずは盛岡機関区の配置です。
最初から初心者には頭が爆発するような数字の羅列ですが、これでも上野ー東京間では一番台数が少ないのです。ここから始めなければいけません。
花巻駅から乗車する賢治さんは、盛岡と黒沢尻の間で乗車していることになります。
そして、黒沢尻以南の岩手県は機関区が「仙台」の扱いになります。
廃藩置県以降ではおかしな境目に感じますが、江戸期の境目としてはここであり、生活文化的に現在でもここが境界なので、そんなに違和感ないです。
ここはつっこまないでおきましょう。
列記した車両のうち、消していないものが賢治さんが乗った可能性のある「客車」と判断したものです。
最初から「えぇー;(意味:なんだこれ?わかんないー)」と思ったのが
18636,18643,
86形です。
生産順、86を頭に1,2,3…と番号を振っていたことでしょう。8697,8698,8699で、次は?
次は万の位に「1」つけるんですってよ!ってことは18636は86形の136台目18643は143台目ってことでしょうか?
けど、必ずしも連番で生産されているともかぎらないらしく……うわぁぁぁぁぁ……
この時点で心がボッキリ折れかかりましたが、
でも、だんだん見慣れてくると、左端字1桁飛ばして「うむ。ハチロク。」と見えてくるので不思議です。
大丈夫。イニシャルD世代だから、この呼び方に違和感ないです(笑)
そして、一行目の21で始まる一群。
輸入車ですね……それはわかる。
問題は「で、どんなどちらの国から輸入されたどんな形で、客車していましたか?」ということですね。
イギリス製の2100形かと。
Wikipediaによると
2128 – 1949年・日本電興小国製造所(小国駅) – 1958年廃車
と、表記がありまして…1931年に盛岡に配置されていたものが、1949年には山形の置賜に民間譲渡されています。
軌間が1,067mmの標準なので、C形と同じ線路を走れますが、2100形は長距離を走れません。
2100形……タンク式(石炭と水が一体型)
C51系…テンダー式(石炭と水は炭水車という別車両でつける)→水や石炭の積載容積が多いから長距離運行に適する!
というわけで、2100形は客車でも長距離走行できないので候補から外しました。
86形はテンダー。外せず。
Wikipediaより引用
最初は東海道本線、山陽本線などの幹線を中心に配置されたが、より高性能な形式が投入されるにつれて幹線からローカル線へと活躍の場を移していった。平坦で距離の長い路線に向き、客貨両用に効率よく使えるという特徴をもって長く愛用され、「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」とも形容された。
→東海道線・山陽本線のお下がりとして盛岡に来て、サブで使われていた記述を見つけることができれば、上野までの長距離用から外せるんだけどなぁ…。
現時点、86形を外す決め手に欠いていて、むにゃっとしています。
(つづく)
関連リンク
- 1931年に宮沢賢治が上京する際に乗ったSLの型と同形を見に行くぞ!(よりみちノート京都駅西)
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<10>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<9>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<8>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<7>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<6>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<5>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<4>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<3>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<2>
- 銀河鉄道じゃないほうのSLの話<1>