SL乗車レポート 2023まとめはこちら

渋谷と賢治

宮沢賢治と東京

駒場東大に行ってみようと思います。1916年、修学旅行で東京に来た賢治さん。西ヶ原の後、駒場東大の前身「駒場農科大学」に来ています。井の頭線の開業が1933年なので、当時の最寄りは渋谷駅。そこから徒歩で向かいます。

渋谷駅前スクランブル交差点。まさか賢治さん関連でここに来ることになろうとわ。 1885年(明治18年)3月1日開業。初日の利用者0人。

岩手に住んでる頃から、名前だけは知っていた道玄坂。全国区ネーミングの坂。道玄坂の由来。なんとなく予想通りの人名に由来

この一角は石碑がいっぱい……ん?晶子?

歌人与謝野晶子の家の跡地ですね。夫・鉄寛の存在が薄いのは、愛人の家に行ってる風を匂わせてるのでしょうか?とりあえず、与謝野家がここにあったようです。岩手県民「石川啄木は、婚礼の日に花嫁を一人置いて、東京で短歌を売り込みに与謝野鉄幹・晶子夫妻の元を訪れていました。」って習うのですが、渋谷だったんですねぇ……。 この石碑周辺、吐瀉物が多いので月曜に見学する際は足元要注意です。 そして、このあたりはもともとの自然地形を生かしているのか、道がアップダウンして蛇行。 当時、一面の茶畑だったという松濤エリアを行こうとしたのですが、こっち出ちゃいました。

朝の山手通り……。私の心の中、BGM椎名林檎でございます。

わかんなくなってきたんですが、山手通りを行くと駒場東大前に行けなくなる予感がするので、漠然とした方向だけで曲がります

迷って路地でくねくね。

…賢治さんが歩いた道!といった確信は無く、なんとなく歩いています。

段々…?

あ、川の合流??なんか、道路の感じだと、元々が山を切り開いた田畑と沢の雰囲気なので、賢治さんの頃は田畑を横切って沢沿いに行くか、整備されてる大通り(たぶん山手通りは整備してたのでは?)を行く感じだったのではないでしょうか?沢っぽい道を流れて歩いていけばどこかに出るに違いない……と歩いていたら、面白いところに出ました。

あ、階段上ると駒場東大っぽい(笑)

エリアが次のノートにまたがってしまいますが、続けます。

矢内原さんが通った場所に門ができて、その門が無くなったので石碑……。

新墾之碑…?

「駒場の玉杯」といわれた第47回紀念祭寮歌「新墾の此の丘の上」碑。 「寮の自治」とか「全寮制」とか、時代を感じるワードが並んでいます。

組織の歌は、中の人間の精神を反映しているから、外の人間が見てもピンとはきません。こうして石碑に残されていると、朗々と歌い上げる人達が誇りに満ちてる様子が想像されます。 それにしても石碑いっぱいだな…爪痕残したいんだろうなぁ…

駒場博物館。オマーンの衣装や変わった形の笛の展示をしてました。

知らない異国の美しい衣装。

ユニークな形状の笛。なんか楽しいなぁ。

アカデミックな施設なので、笛の文化的背景や構造を解説しています。中に水が入ってて、移動すると音が鳴るという笛です。

音色が面白くて、見入ってしまいます。

駒場1号館。1933年(昭和8年)完成。旧制第一高等学校時代のもの。駒場農科大学時代の建物は残っていません。 1935年(昭和10年)に駒場農科大学が一高と用地交換になって、ここが一高になりました。 目の前の建物は趣深いのですが、賢治さんの時代には無かった新しい建物です…。

農科大学時代の建物は無いということですが、ケルネル田圃という名称が残っている場所があるということで一応目指すのですが、線路向こうだったために上手く行きつかず。

なんか中途半端な感じですが、道路に出ちゃって挫けてしまいました。最初の迷い道くねくね気力体力消耗したようです。 どうなるナギノ!?……つづく

スポンサーリンク

追記

後日ケルネル田圃行きました〜。雰囲気のある公園ですが、公園入り口が駅直前踏切で電車の往来が激しいです。

よりみちノート東京版はこちら

改訂版 東京よりみちノート ([バラエティ])
今回のノートは、ひとり東京さんぽ withよりみちノート (よりみちムック)に付録としてついていた、ちょっとだけ範囲の違うマップの東京よりみちノートです。

ひとり東京さんぽ withよりみちノート (よりみちムック)