御茶ノ水駅エリア、夏休みに初めて来訪する方も多いのではないでしょうか?なんと、宮沢賢治さんも東京留学をする時に選んだ場所でもあり、駅徒歩圏に足跡が集中しています!2024年7月6日、現在の様子を確認してきました。
JR御茶ノ水駅
スタートはJR御茶ノ水駅、御茶ノ水橋口です。さっそく、目の前の「お茶の水橋」を見上げてください。
1.旧・文化アパートメント(東京国際倶楽部)/現・順天堂大学センチュリータワー
尖った赤白がくっついた建物「順天堂大学センチュリータワー」が見えます。かつてそこには、日本初の純洋式アパートメントハウス「文化アパートメント」が建っていました。1926(T15)年、宮沢賢治さんは7回目の上京で約1ヶ月東京に滞在していました。その時に、友人のインド人シーナと文化アパートメントで開催された「東京国際倶楽部」の集会に参加しました。この時、思わぬ縁でフィンランド公使ラムステッドとも交流しています。
さて、足元のお茶の水橋ですが、以前ここには「錦町線」という路面電車が走っていました。御茶ノ水〜錦町河岸をつなぐ1100mの路線です。
なんと軌道が出現していたことも!
終点・錦町河岸方面に、インド人シーナと知り合ったタイピスト学校、宿泊していた「上州屋(じょうしゅうや)」があリました。今日は、「上州屋」を目指してほぼ錦町線沿いを歩いて、途中にもある賢治さんの足跡を解説します!
2.明治大学
徒歩5分、明治大学が見えてきました。ここまでの道のりは、楽器屋さんばかりが目につきます。錦町線甲賀町停車場はこの辺りになります。停車場というのは、道路のど真ん中ですので全部道路の下です。
明治大学は、NHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデル三淵嘉子さんの母校です。現在、関連企画展開催中です。主人公が女学生だった時代は、宮沢賢治さんもちょうど上京していた時期と重なります。
3.旧・八幡館/現・日本大学(カザルスホール)
宮沢賢治さんを語る上で絶対に外せないのが、明治大学向かい、日本大学の建物です。看板のカザルスホールの名前はなんとなくまだ読めますが、現在音楽ホールとしては使用されておりません。2026年6月に新装オープンとのこと。
1931年、賢治さんが最後に上京した時の宿「八幡館」という旅館があった場所になります。自身と東北砕石工場の再起をかけての上京でしたが、病に倒れ夢破れた場所です。
ビヤホール ランチョン
神保町駅方面に進んできました。隣接する建物を先に紹介するべきなのですが、誘惑に勝てません。先にお昼にしましょう!
明治42年からこの場所で営業している西洋料理店。お値段ちょっとお高めですが、一緒に来た人との良い思い出が沢山あるお店なので、今日も思い出を増やしましょう♪
本日同行のアシスタントスタッフ、瓶のオレンジジュースは初めてだった様子!「このビン、もらえないかな?」「いや、返すでしょ」
正統派のオムライスと、バリッと香ばしく揚がった唐揚げがお気に入りです♪
窓の外には「書泉グランデ」が見えます。鉄道関連のみならず、店内には羽ペンや羊皮紙、パピルス、西洋甲冑といった「本でしか見たことのないようなもの」の実物も売っている面白い本屋さんです。
4.旧・日活館/現・タキイ東京ビル
先ほど食事した「ランチョン」が入っているビルを、「書泉グランデ」前から撮影しました。隣接する「サイゼリヤ」が入っているビルが、かつては「日活館」という映画館でした。1928年、8回目の上京時に宮沢賢治さんはここを訪れていて、詩『神田の夜』の最後の部分に「日活館で田中がタクトをふってゐる」と書いています。映画は無声映画で、活動弁士と生の専属の楽団による生演奏の演出があり、指揮者が海軍軍楽隊出身の田中豊明(とよあき)でした。映画の内容でも、弁士の話術でもなく、指揮者に注目している賢治さんです。
5.旧・錦町三丁目停車場
旧錦町線沿いに戻ってきました。神田警察通りと交差する辺りが錦町線錦町三丁目停車場があったあたりです。目の前の正則学園高等学校の裏通りが、「上州屋」のあった場所になります。
6.旧・上州屋
上州屋は、宮沢賢治さんが9回上京した中でも、名目や言い訳ではなく、好きな勉強をした東京留学の時の拠点です。初回約1ヶ月、2回目2週間と滞在期間も長期でした。上州屋は宿ではなく、大きくない薪炭屋(しんたんや)で、賢治さんは2階の6畳間を借りていました。
センチュリータワーで華々しい交流をした1926(T15)年の時の宿もここ。1928(S3)年に上京して2週間滞在した時も、拠点はここでした。そんなに気に入ったなら1931(S6)年も長期戦の予定だったはずなので、ここでも良さそうなものですが、近くの八幡館を宿にしています。取れなかったのか無くなっていたのか…
7.旧・錦町河岸停車場
錦町線の終点、錦町河岸停車場に着きました。…道路しかありません。上州屋から錦町河岸停車場までは徒歩3分です。これにて錦町線をたどり終わりました!が、ここは最寄りのどの駅からも15分程度離れている地点になります。来た道とは別の道で、さらに賢治さんの足跡を追いながら御茶ノ水駅まで戻ろうと思います。
まずは、上州屋に滞在していた時に通っていたタイピスト学校に行ってみましょう。インド人シーナと知り合った学校へ!
8.旧・タイピスト学校/現・住友不動産神田ビル
角から2つ目が、かつて木造2階建てのタイピスト学校があった場所です。大きなビルになっていてびっくり!上州屋からここまでは10分かからず、とても近いです。欧文のタイプライターを学んで書こうと意気込んでいたのは、同じ時期に丸の内で習っている「エスペラント」でしょう。左折して本郷通りに入ります。
9.旧水晶堂と金石舎
本郷通りをまっすぐ進むと、途中で「旧水晶堂と金石舎」に遭遇します。
※この後、やや坂になるため、一度この辺りのカフェで一休みすることをお勧めします。
10.ニコライ堂
さらに進むと、御茶ノ水駅直前で現れるのが「ニコライ堂」です。1916(T5)年、2回目の上京時に保坂嘉内宛に短歌を送っていて、ニコライ堂を詠んでいます。
「するが台 雨に錆びたる ブロンズの 円屋根に立つ 朝のよろこび」「霧雨の ニコライ堂の 屋根ばかり なつかしきものは またとあらざり」
東京再訪が叶った喜びと期待が伝わってきます。
しかし、上州屋を拠点に滞在していた7回目の時は、関東大震災で鐘楼が倒壊してドームを破壊、火災で土台と外壁しか残っていない変わり果てた姿の頃です。短歌を送った保坂嘉内とも関係が壊れていますから、ニコライ堂を目にしても思い出がつらかったでしょう。
JR御茶ノ水駅前、「聖橋」。「ニコライ堂」と「湯島聖堂」という二つの聖堂を結ぶことから、この名前がついています。一周して御茶ノ水駅に戻ってきましたが、この先徒歩5分で有名な史跡が2箇所もあるので、せっかくですから足をのばしましょう♪
11.湯島聖堂
JR御茶ノ水駅から徒歩2分、湯島聖堂は、徳川綱吉が建てた孔子の霊廟です。後にここに幕府直轄の学問所「昌平坂学問所」が置かれ、新政府に引き継がれ東京大学・筑波大学・お茶の水女子大学の元になります。歴史ある建物ですが、関東大震災では消失、1935(S10)年に再建したものとのこと。
12.神田明神
JR御茶ノ水駅から徒歩5分、「神田明神」は東京中心部の氏神様です。こちらも関東大震災で焼失し、再建は1934(S9)年。祀られている神様は、縁結びの神様、大己貴命(オオナムチノミコト)こと大黒様です。
カフェメニューやエアコンの効いた休憩スペースが充実しているので、こちらの「神社声援(ジンジャエール)」を飲んで一息ついてから、帰路につきたいと思います。
「このビン…」「これはお土産用があったから、いいんじゃないかな?」
宮沢賢治さんが、上州屋を拠点に御茶ノ水エリアに密着して活動していた1926(T15)年は、震災からまだ復興できていない建物が多くあることがわかりました。昔から有名な場所で近くを通っているのに、賢治さんの作品に登場しない名所は、このタイミングだったこともあったのではないでしょうか。しかし、復興の中で新しく出てきたものをいち早く取り入れ、思わぬ交友関係の広がりで東京にのめっていく賢治さんの足跡を追うことができました。
リンク
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