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新川(霊岸島)と賢治

宮沢賢治と東京

今オフィスが立ち並ぶ新川。 「純金の自動販売機」が面白くて度々訪れていたそのエリアに、賢治さんが来ていました。 …あれ、島なんてあったかなぁ? 記憶にありません。 新川のMAPが無いので、描きました。

こうして描いてみると、四方を水辺に囲まれているので、島っちゃ…島? 新川はかつて霊巌島という名称で、東京湾汽船の発着港がありました。賢治さんが大島に行った1928年6月、霊巌島から船に乗って行きました。東京湾汽船は今の東海汽船株式会社。設立は渋沢栄一。 (賢治さんと東京を調べているとそここで見る渋沢栄一栄一はまさしく時の人だったに違いない…)

日本橋駅から永代通りを直進、地面の下には東京メトロ東西線が走っています。徒歩8分で橋にかかります…

はっΣ(・ω・ノ)ノ! 「れいがんばし」って書いてある! 今まで10年近く気づいていませんでしたが、霊岸島の痕跡がありました。 幸先いいですね♪

霊岸島面影探し、 一つ目の角を右に曲がると、またまた発見!

交差点の名前が霊岸島。 右に曲がると島から出てしまうので、左に曲がります。

そこから5分、公園を発見しました。越前堀児童公園は、区立明正小学校という、なんとも雰囲気のある小学校の向かいで、バスケットコートもあり、子どもたちがいっぱいのにぎやかな公園です。 隅に石碑を発見。

公園の改修記念碑でした。 越前掘…事前学習せずに現地に突入したので、単語が??です。 ここ、堀だったということでしょうか?越前ということは、越前守の関係?? 。「?」そのままに、地図に出てきた新川の跡碑を目指して進みます。

辿り着くと、こっちも公園でした。 

読み応えありそうな石碑発見。

霊岸島のヒントあるかな? 石碑は新川之跡

新川の跡(所在地 中央区新川一丁目地域)
新川は、現在の新川一丁目三番から四番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川 に合流する運河でした。規模は延長約五百九十メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。 

この新川は、豪商河村瑞賢(ずいけん)が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(一六六〇)に開さくしたといわれ、一の橋は北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。 

昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。 

平成六年三月
中央区教育委員会

説明板「新川の跡」。 現在の住所「新川一丁目三番から四番の間」で亀島川から分岐して、この石碑付近で隅田川に合流する運河「新川」 がありました。万治3年(1660年)に作った川で、昭和23年(1948年)に埋めました。新川を作った河村瑞賢を顕彰する石碑です。  ということは……冒頭の「れいがんばし」と交差点「霊岸島」の間の道、道路に沿ってこの石碑までの直線道路が「新川」という川だったのですね。 今の地名「新川」の由来は、かつてここにあった「川」でした。元来馴染みがあっただろう「霊岸島」よりも「新川」が今の名称になっているということで、河村瑞賢という人の影響力を感じます。

隅田川側が日が当たりません。周囲の高層ビルの影でしょうか。

綺麗な色だなぁ…なんで青いんでしょう?自分の服装も青×黒なので、保護色と化していますw

隅田川沿いに、かつての東京湾汽船の発着場所に向かいます。

振り返ればスカイツリーが見えます。

防災船着き場のマークがついているところですね。今でも船着き場として機能しているのでしょうか? 10分くらいで着いた場所で、いかにもなモニュメント発見!

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ここが宮沢賢治の足跡「大島行き東京湾汽船の発着港」

ごくあっさりと、江戸の経済を支えた港と、伊豆大島に向けて確かに船が出ていたことは書いてあります。 ……これだけでは、理解とは遠いなぁ……。 ここまでで、一応達した目的は、 「賢治さんはここから伊豆大島に行った 」「ここに来た」「ここは日本橋が近い」 です。大島から帰ってきて上野の図書館に行ったり、その他にもついでで行く前にも色々見たり遊んだりのアクセスが容易です。 とはいえ、霊岸島探検としてはちょっと物足りない。自分の霊岸島レベルがアップした感じがしません。

目の前の階段を降りてみましょう。

墨田川テラスを歩きます。リバーサイドが気持ちいいです。

旧霊岸島水位観測所
一等水準点「交無号」

自分の中で焦点が定まった「霊岸島が捉えられない問題」に響かず。 於岩稲荷田宮神社に到着。

霊岸島について教えてください… 場当たり的ですが、土地神様ならきっとなんとかしてくれるはず…。 すると、高橋の近くの道路案内で気になることを発見。

旧霊岸島と呼ばれたエリアは、最初に見た小学校と児童公園の周辺だったのです! (なんか怪しいと思ったんだよな……あの小学校。)

そして、公園内には霊岸島の碑の文字が!気づかなかったぞ!!これは完全な見落とし!!!公園に戻らなくてはなりません。

本日二度目の越前掘児童公園。霊岸島の碑はあっさり見つかりました。

心構えのぬるさが、目を曇らせていたようです。

もともとこのあたりは一面の沼地、芦原の中州でした。(首都圏、芦原多いな…) 寛永元年(1624年)霊巌上人が、霊巌寺を作るために開拓。 寛永11年(1635年)寺の南方に越前福井の藩主が浜屋敷を拝領。屋敷の三面に船が入れる堀を作り、後に越前堀の地名の起源になる。 明暦3年(1657年)江戸の大火で霊巌寺は全焼して、深川白河町へ移転。 跡地に替地として、江戸の町民が集団で移り住んできた。 明治・大正時代は栄えるが、大正末期の関東大震災で焦土と化し、昭和6年に区画整理。

霊巌…お寺のお坊さんの名前が由来だったんだ… 。いわくつきの岩ではありませんでした。そして、自分の寺が建てられるからとはいえ、お坊さんが土木作業をしております。あ、でも!市原隼人の傑山(けつざん)、大河ドラマ「おんな城主直虎」ではマッチョでしたね。やりそう…… 頭の中で、市原隼人主役・霊巌物語が展開中。

近くに越前堀の石もありました。面白くなってきたので、旧霊巌寺の場所も確認したかったのですが、近くを念入りに見回すも手掛かりなし。 島内の散策を終了しました。……ここまで2時間。狭い島です。

街に年の瀬の雰囲気が出ています。

霊巌寺について、現地では場所がわからず、日本橋で地図を2点購入しました。1枚目は、明暦3年(1657年)作「明暦江戸図」明暦の大火の年、明暦の大火の前の地図です。

牛嶋新田の位置がざっくりな気がしますが…霊巌寺です。 霊巌寺の上の川、新川です。 対岸、地図では牛嶋新田のように見えますが、現在地図だと清澄白河エリアです。明暦の大火で、江戸の中心地から遠ざかって対岸に移転したのです。 霊巌寺の下、「越前少将」の文字。越前屋敷、小さめです。 三面に船が入れる堀がありません……あれ?石碑だと明暦の大火前に完備のニュアンスだったのですが。 明暦の大火の後の地図を見てみます。 文久3年(1863年)霊岸島八丁堀日本橋南絵図。

上の地図から206年経過。松平越前守屋敷がでかでかとあります。 松平と言えば徳川ゆかりの家柄……ちゃっかり、霊巌寺が立ち退いた土地、もらっちゃいました? 一目で件の三面に船が入れる堀「越前掘」もわかります。けれども、霊巌寺の場所に確信を持てません。

う~ん…もにゃもにゃ。想像。あの公園と小学校とその周辺だったのかなぁ…。

このあと、明暦の大火を調べていて、霊巌寺エリアがとても関係の深い場所だと知ります。 江戸は3年に一度は火災に見舞われる街だったこと。 中でも明暦の大火と呼ばれる明暦3年(1657年)の火災は特にも被害が大きく、その後の都市計画に影響します。 霊巌寺もその影響にあった一つで、明暦の大火の時は、日本橋方面から焼け出された人が多数押し寄せました。 しかし、当時の霊巌島は、墨田川を越える橋は架かっておらず行き止まり。 霊巌寺に押し寄せた多数の人は、焼死・溺死しました。 明暦の大火を教訓に、火消し組の組織と共に日除け地・堀が整備されたとのことですから、越前堀の整備もこのタイミングなのではないでしょうか。そして、明暦の大火で消失したことで、隅田川の向こうへ移転した霊巌寺。今は清澄白河駅前にあります。行ってみたいな清澄白河。

今回、新川を調べてみたら、ここは東京湾埋め立ての歴史を追いかける場所でした。日本橋の河岸に霊巌上人が島を作り、明暦の大火を経て移転や川を跨いだ地域と連結するためにさらに埋め立て、今は橋で繋がって陸地の一部になりました。

東京の歴史は、明暦の大火と関東大震災は大きく変化するターニングポイントですね。 大きく変化したエリアを捜索に行くときは、下準備無しに行くと徒労に終わる可能性大な事を痛感し、以後、必ず下調べをしようと心に誓ったのでした…。

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