宮沢賢治と谷中茶屋町
1921年(大正10年)1月23日に家出して東京に住んでいた宮沢賢治さん。生涯5度目の在京時期のことです。早春、阿部氏に会いに行った場所が『谷中茶屋町』です。こちら、賢治さんの下宿先と帝国図書館の間あたりの徒歩圏です。
阿部孝とは?
這ひ松のなだらを行きて息吐ける 阿部のたかしは がま仙に肖る
阿部孝氏は花巻出身。小学校では宮沢賢治より1学年上、中学校では同窓で、中学時代に親交がありました。東大卒の英文学者で、戦後は高知大学学長などを務めました。東大在学中に下宿していたのが「谷中茶屋町8番地」(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」)です。
この時、阿部孝氏の書棚から偶然に萩原朔太郎の『月に吠える』と出会い、口語自由詩の創作を始めるきっかけになり、3年後の1924年(大正13年)に『春と修羅』出版に至るので、賢治さんの創作のインスピレーション得た場所としてとても重要に思えたのです。
余談ですが、佐藤惣之助についても調べている身としては、萩原朔太郎は佐藤惣之助の義兄ですので、気になる存在です。
日暮里駅前 天王寺
以前、高村光太郎宅跡を見に行った時の日暮里駅が今回の最寄りです。
南口出て左折、徒歩1分。
実は元々こちらのお寺は日蓮宗「感応寺(かんのうじ)」。幕府との対立から天台宗に改宗して「天王寺(てんのうじ)」になったのです。
なるほど。谷中茶屋町は改宗して檀家が離れてしまった天王寺の門前を盛り立てるためにできたという経緯と合ってますね。改宗は教えが変わるので、何と無茶なと思っておりました。幕府の謀でしたか。
天王寺を出ると、一直線に見渡す限り墓地です。
天王寺でいただいたパンフレットに掲載されている感応寺全景の図を見ると、感応寺の広敷地と惣門前の門前町の様子が見れます。景色が違っていて、お墓はありません。
墓地は、明治維新後に政府に天王寺の敷地を没収されてからできたのだそう。有名な人の名前もチラホラ…
あ…寄り道していこうかな♪今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」にも登場の徳川慶喜公。
あ…思ったよりも入り組んでいて思う方向に進めません。RPGのダンジョンさながらに迷います。
ようやく辿り着きました。ここのようです。
しかしながら、門に囲われていて近づけませんでした。
元の山王寺から一直線の通りに戻ってきました。見事な桜並木です。「さくら通り」という名称や綺麗なトイレが目につきます。咲いたらすごいんでしょうね!
風格ある建物に「花重(はなじゅう)」の文字。こちらのお店と先ほどの桜並木の始まる間に「惣門(感応寺正門)」が建っていたとのことなので、花重から手前が門前、「谷中茶屋」になります。
右奥の通りが来た道で、花重・桜並木が見えています。左に広い通りが広がっていますが、この通りが谷中茶屋町8番地だった場所に作られた道路になるようです。どの位置がピンポイントに阿部孝氏下宿先の8番地か決め手に欠いてますが、面白い発見がありました。
この三角の角地に建つ「ぎゃらりぃ茶屋町三番地」。この建物と手前の道路が茶屋町3番地で確定です。
ここが谷中茶屋町三番地で、ここにあった吉田屋酒店を移築して、ぎゃらりぃとして町の面影を残したと書かれています。吉田屋…!先日、帝国博物館を見に来た時に見学した「下町風俗資料館付設展示場」になっている「旧吉田屋酒店」ですね!!
谷中茶屋町エリアから上野方面に細道を5分ほどで移築先に着き、吉田屋酒店が見れます…が、本日休館。
江戸時代から戦災を乗り越えて残った吉田屋酒店は、中もかつての様子を伝えています。内部の様子は以前のレポートでご覧ください。
旧上野図書館(帝国図書館)に行ってみた ※中盤に吉田屋酒店レポがあります。
こうして谷中茶屋街の経緯を巡ってくると、吉田屋酒店が茶屋街にお酒を卸してたのかなぁ…とか、階段を見ながら、こういう商家の二階に阿部孝氏が下宿していて賢治さんが遊びに来たのかなぁとか想像したりできます。