狐面と私
福島県棚倉町とお隣の横浜市鶴見区が友好交流都市ということで、棚倉町を紹介するイベントを開催するために仲間たちが棚倉町の狐面に絵付けをしております。福島県は夜しか出歩く思い出がなかったので、棚倉町も夜ドライブの思い出です。
そういえば、福島県ではなく地元岩手県で野生の狐をみたことが1度だけあるんです。それは不思議な体験でした。
狐を見た話
賢治作品にも出て来る狐。私の生まれ育った水沢市は、花巻市よりも南になり、日常的に野生の狸はみるのですが狐を見ることはありませんでした。
今から20年前、1度だけ「見た!」と確信する出来事がありました。今回は私の体験の話で「忘れられない狐との出会いの思い出」です。
狐にあった場所
その狐と会った場所は岩手県奥州市水沢「鎮守府八幡宮」という神社です。
水沢駅から金ヶ崎を経由して北上駅に行くバスに乗っていると、バス通り沿いに大きな鳥居が建っているので、通った人には「おぉ、あそこか」と記憶に残る神社です。本殿はバス通りから田畑の間をだいぶ歩いた森の中にあるので、バスから本殿をみることはできません。
この神社のロケーションについて、奥州市と共に説明させてください。
阿弖流為の拠点 奥州市
当時、岩手県水沢市と言われた場所は、平成の大合併では胆沢(いさわ)・江刺(えさし)地区で合併し「奥州市」になっています。もともと「胆江地区(たんこうちく)」として併せて呼ばれていて活動圏も近いので、一緒になることに違和感はなかったのですが、平泉との関係に微妙な感じがあるところでしょうか。
平泉が世界遺産になったことで、歴史の話では奥州藤原氏関連が先に目につきますが、奥州市地区ではやはり阿弖流為関連に目を向けたいところです。
阿弖流為とは?
社会の教科書では「8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷の族長」と習います。教科書のみの印象だと「大和国の蝦夷討伐」のように見られますが、大和に蝦夷と言われた地方にも独自の文化をもった「日高見(ひだかみ)」という連合国が存在しました。決して一方的に肯定される正義の討伐ではありません。
ただし、文字の記録が歴史調査のよすがになるため、文字を持たない日高見国側の情報は、敵方の大和国に記されたものになっていきます。
日高見国とは?
日高見国の範囲としては、茨城県日立市より北部の東日本の広い地域という説がありますが、その中心の「胆沢の地」は胆沢・江刺地方を中心に、南の東磐井・西磐井、北の和賀及び稗貫地方の南部を含むと広域とされています。
今の奥州市、南の一関市・平泉町、北の金ヶ崎町・北上市・花巻市の一部ということになります。
「稗貫」という地名、宮沢賢治に関心がある方にはすでに「おや?」というキーワードですよね。この話は賢治さんとも関係するのです。
日高見国(蝦夷)がどのような民族であったかは2説あり、どちらかはっきりした決め手にはいたっていません。1つは東北地方に住んでいたアイヌ民族「蝦夷アイヌ説」、もう1つはアイヌ民族と近しい別の民族「蝦夷辺民説」です。
アイヌ語で説明がつく岩手県各所の地名について、その言語を使っていた人たちその人だったのか、後から流入した人が以前から呼ばれていた地名を使っていたにすぎないのか…ということです。
北海道アイヌに連なる同族であったと言い切れる状況ではないのですが、私は感覚的に近しいものを感じています。遠野のヤマビトについても、感じることがあるのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。
胆沢(いさわ)=i・sa・wa=聖なるそれの・前の・岸
「いさわ」アイヌ語起源について引用させていただきます。
もしも、この「いさわ」がその通りアィヌ語系古地名だとしたら、次のように解釈されます。
「いさわ」の語源は、=アィヌ語の「イ・サ・ワ(i・sa・wa)」で、その意味は、
=「(聖なる)それの・前の・岸」になります。
この場合の「(聖なる)それ」とは、いったい、何を指すのかと申しますと、それは、「エミシの国の偉大な指導者阿弖流為のチャシの丘であるとともに、村落連合国家日高見の中央本部であり、かつ、「田茂村のエミシの人たちの”チ・ノミ・シル”(我ら・祭る・山)でもある聖なる丘「田茂山」のことであったと推定されます。
そして、「前の・岸」というのは、「田茂山の前の北上川の岸辺」ということだったと考えられます。
つまり、「いさわ」の地名の起こりは、「聖なる丘田茂山の・前の・北上川の岸辺」を指す古地名の「イ・サ・ワ」だったのではないか…と思うのです。
出典「随想 アイヌ語地名考」
岩手を知る上で、アイヌ語を理解して検証することが必要なのだと思うきっかけになったサイトです。岩手出身の金田一京助氏がアイヌ語の研究に打ち込んだのも通じるものがあったのでしょうか。
金田一京助氏は賢治さんの盛岡中学の先輩であり、大正3年に「北蝦夷古謡遺篇」を出版しています。アイヌ語の聞き取り調査をし、千里幸恵氏に「アイヌ神謡集」を出す導きをしています。賢治さん大正10年の家出時代、金田一氏の家と下宿先が近く、交流があったことから賢治さんと千里氏の接触とまではいかなくとも、アイヌ語の聞き取りやノートの存在を見聞きしたのではないか?と想像される状況があります。
賢治さんの作品に端的に「アイヌ」「悪路王(阿弖流為の大和側の呼称)」が出て来るので、手掛かりが少なく困難かとは思うのですが、アイヌ語や日高見国との関連で見えてくるものがあるのだと思います。
征夷大将軍 坂上田村麻呂と胆沢城
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
延暦16年11月5日(797年11月27日)桓武天皇より征夷大将軍を任命されて蝦夷を討伐。東北地方を統治した人です。
桓武天皇といえば、平城京から平安京に遷都した天皇。大和政権の中心が西日本なのに、北東北まで侵略した坂上田村麻呂が人間離れした功績なので、信じがたい人物像です。
坂上田村麻呂は、征服の証とさらなる北方の侵略の拠点として城を建設し、大和の神を祀った神社を建設していきます。
阿弖流為の館の目の前に建造したのが「胆沢城」で、その敷地の北側祀ったのが「鎮守府八幡宮」です。
ちなみに胆沢城は築城されてから4,000人を配置する命令が出て、今の関東地方から人が集められ、常時700人がここにいたそうです。
これだけの人数が流入し、神の持ち込みで同化が行われていたなら、長い年月の果てに既にどちらを祖先としているかは知る由もないのも無理もないことかもしれません。賢治さんも。私も。
八幡宮でキツネを見た
胆沢城があった場所は、今は公園という名前の広い野原です。その奥の森の中に佇む「鎮守府八幡宮」は立派な社で、神は神なのだという風格を感じます。
20年前の正月2日夜。友人たちと初詣にきました。2日の夜は人がおらず、バス通りの鳥居から八幡宮までの胆沢城跡は全面真っ白な雪原で、車のヘッドライトだけでは道路の判別も難しい道のりでした。
駐車場に車を止め、本殿の明かりでお詣りした時、雪の上をサササと移動する影が。見ると、白いキツネ!初めて見ました。なんかもう、冬毛で白い狐が珍しいし、狐が水沢にいるのにもビックリで、犬でもウサギでもなくキツネというのに感激して「すっごぉぃ!」と年甲斐もなく追いかけたのですが、本殿の曲がり角で見失いました。トホホ。
そこに、お稲荷さんを祀った社があり、狐が出るからここには祀られているんだな…と、そちらも参拝。それまで本殿しか拝んでなかったので、お稲荷さんもあったんだなと、後から追いついた友人に報告。その場では「白いキツネを見た!」「へぇ、キツネって水沢にいるんだね!」という会話で終わったのですが…後日、どうも冬に毛が白くなるキツネも、そもそもキツネも水沢には生息していないと言われております。
見たんだけどなぁ…むしろお稲荷さんのご神体を見たんじゃないか?と言われるものの、そっちだったとしても不思議な体験です。
やけにはっきりと見た白いキツネが、生物でも神でも不思議な出会いでした。ま、イーハトーブなのでということにしておきましょう(笑)