宮沢賢治の短歌に出てくる大使館「大使館低き練瓦の塀に降る並木桜の朝のわくらば」
一番はじめによりみちノートの白地図に賢治さんゆかりの地を書き込んだ時、短歌の注釈に「フランス大使館」とあったので、フランス大使館を検索。ここに印をつけました。1916年(大正5年)の短歌です。そして、しばし後、「あぁ、賢治さんの時代にフランス大使館は別の場所ですね」と、消したのです。その時、恵比寿~広尾のこのページは、賢治さんと無縁と判断して閉じたのですが、ナギノはご縁を繋いでいただき、フランス大使館で大使館の建物についての資料を拝見させていただけることになりました。そこで、このエリアを探検しに行くことになりました。
JR恵比寿駅からフランス大使館へ
本日は、JR恵比寿駅を出てまっすぐ。外苑西通りとぶつかる恵比寿三丁目交差点手前で気になる階段があったので、横道に逸れてみようと思います。
ところで、ここまでの道のり、自転車でスピードを出されている方が多く、自転車同士で正面衝突されていました。お気をつけて!登り切ったところに、気になるものを発見!
渋谷同胞幼稚園。恵比寿は渋谷区です。さて、この右の壁に気になる表示があります。
渋谷のような大都市で、看板立てるまで貝塚の存在が残ってたのはすごいなぁ……。日本人、無視して開発しそうなものなのに。逆に言うと、無視できないほどの規模で出てきたということでしょうか。どこかに保管・展示してるのかな?気になります。
スタバの壁画が印象的なこちらは「広尾病院」。近所で「うちの親戚が広尾病院に搬送されてー…」と話題にされていた方がおりましたが、ここでしたか。院内にスタバがあるのは、待ち時間に嬉しいですね。
ここから富士山が見えていたようです。
待ち合わせの時間まで、フランス大使館目の前のニュー山王ホテルにお茶マークがついていたので、そこで過ごそうかと思ったのですが、入り口の物々しさにビックリしましたΣ(・ω・ノ)ノ!一体何ごとなのかと、計画変更してお向かいのレストランでお昼をいただくことにいたしました。
調べてみると、ニュー山王ホテルは名前は日本風ですがアメリカの米軍施設で、一般客は利用できないようです。えー……明記してよgoogleさん……。こういうあからさまな拒否ムードを感じると、日本って敗戦国なんだなぁと思います。
ハーブ香るチキンがパリッとしてて、美味しいです。ジャガイモのつけあわせが異国な感じがして、お向かいのホテルといい、なんかこの辺違うなぁと感じました。美味しい時は戦時の勝敗どっちでもいいんですけどね。
まだ約束の時間には早いのですが、フランス大使館の文字。
こちらが現フランス大使館外観。ゴーンさんの件で、出入りが多めの様子。とはいえ、外壁が高くて中の様子はさっぱりわからないので、私が感じているのは空気だけです。
すぐ真横に青木坂という坂があります。急な坂ですが、天気も良いしご飯もたべたので登ってみましょう。
左が大使館方向なのですが、この建物は大使館ではなくマンションのようです。うーむ。外から大使館は全く分かりません。大使館の敷地は、外国。セキュリティ高いです。日本ではないので、日本の一般人は情報収集不能です。というわけで、坂を下りて、元の道を直進。
すぐに次の坂新富士見坂が。こちらはすぐに住宅街でどん詰まっております。
住宅が、現在普及している形と違うなぁ……という家がぽつぽつ。見慣れない景色を堪能していたら、不意に見慣れた空気の社を発見。これは、何かありそう!
欧米の空気が濃い広尾にも庚申塚が残っております。
おぉ!ビックネームきました!!
高橋由一(ゆいち)「黒龍図」。拝観料を取らずに、町の近所の小さな社に、日本初の洋画家の天井画。しかも龍!!
迫力ある龍。上手いです。鮭とか豆腐とか描いてる人ですよね?鮭や豆腐をリアルな迫力で描く人は、想像の生き物を描いてもリアルで迫力があります。
本題:フランス大使館へ。
さて、ご近所で色々と面白いものを堪能していたら約束の時間になりました。しかし、大使館に入る際にはセキュリティチェックがあり、色々取り上げられ、厳重にお通しされまして、撮影許可が出たのはここだけです。
雑談的にフランス大使館には100年前に桜があったのか?という話をした際に、「1本立派な桜があったらしいんですが、切ったみたいなんですよね。でも、これといった資料もこちらしかなくて、桜の記述は無いんですよ…」ということから、資料を拝見しに参上いたしました。
賢治さんが短歌を詠んだのは1916年。あれ?飯田町じゃないのかな??と思い、ページをめくったり、戻ったりしながら読みます。日本語は訳文なうえに、フランスの雰囲気を感じる文学的な表現なので、読みづらいです。サブタイトルが1905年までになっているので、ややこしいのですが、年代をいくつかに区切って、建物の改築費用を本国フランスに要求するものの、第一次世界大戦の混乱の時期のため、予算が出なくて、結局は1923年9月1日の関東大震災で焼失するまで飯田町のようです。
権力の中枢に近い土地に構えたものの、借地&賃貸物件で、かなりご不満の様子。本国フランスに建て替え費用や、日本に敷地を賃貸ではなく取得できるように求めているものの、どちらも通らず、元々あった建物を再利用するにとどめていたようです。(第一次世界大戦の時期で、フランスはお金がありません。)そして、その建物というのがこちら。
桜がない!Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
……松ですね。一面、松です。
しかも、ボロクソに書かれている割には、立派な建物です。仮にも大使館としての用途に使えていたわけですし、皇居の側、一般人の住宅とはレベルの違う話のようです。
ここまでは、本国が第一次世界大戦で予算が回ってこず、土地にくっついてきた建物を再利用した話。ここからは、建物を再利用する状態がなんだかんだで続いてしまい、関東大震災で焼失するまでが書かれています。
関東大震災に遭遇した駐日フランス大使はポール・クローデル。在任期間は1921年(大正10年)11月19日~1927年(昭和2年)2月17日。本文によれば1921年に着任した際には「見事な日本庭園の中にある木造の大きく古い建物に満足していた」とあります。この資料で一貫して「フランスの威信を示さない建物」と表現されているのに対して、この建物の最後の大使となったポール・クローデルは気に入っていたようです。皮肉にも、この建物の火災焼失を目の当たりにし、次の地への移転を手掛けることになります。
さて、この「見事な日本庭園の建物」。続きの探検で正体を知ることになります。ちょっとひっぱりますが、次の九段に続きます。
外部リンク
よりみちノート東京版はこちら
改訂版 東京よりみちノート ([バラエティ])
今回のノートは、ひとり東京さんぽ withよりみちノート (よりみちムック)に付録としてついていた、ちょっとだけ範囲の違うマップの東京よりみちノートです。