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銀座と賢治

宮沢賢治と東京

東京の中で地盤が固いことから、建物を建てるなら…と、人気な土地柄。
「銀座」は見所が集まってくる場所です。
人気があって地面が高いから、品物にもそこがかかってくるわけで…高い。
銀座=高い。今も昔も当たり前。

さて。
普段から「銀座」にフォーカスして暮らしている人にとっては「銀座」という名称でピンとくると思うのですが、初めて、しかも地方から「銀座行くぞー!」は難易度が高いのです。
JR通ってないですしね。JRどころか、山手線通っていないところは初心者には厳しいです。

4丁目交差点を見て「あー、見たことあるなぁ」と思い、木村屋や山野楽器の前で「日本一高い土地かぁ」としみじみ。銀座線を見て「これ、どこに行く電車?」。初めてはそんな感じかと。

今でこそSuica相互乗り入れで事業者関係なく乗り継げてしまいますが、Suicaは2001年(平成13年)導入でした。それまではIOカードでJRを乗り継いできた後に、地下鉄の前でぐっちゃぐちゃの路線図を見ながら「営団地下鉄」「都営地下鉄」の別を判断して、切符を買って乗り継がねばならなかったのです。
事前に調べないと「えー……営団と都営どっちだよ……」となる上に、そこがわかっていても「この券売機どっちだよ…」となります。自分も迷っているし、立ち尽くす人々で混雑しているし……で、平成初期までは非常に不便でした。

賢治さんがこのエリアに来た記録が残っているのが1916年、1919年、1926年。

銀座まではどうやってきたのでしょうか?上野からアクセスが良さそうな地下鉄銀座線は1927年12月30日開業(しかも、上野-浅草間)なので、当時はありません。市電は……可能性ありですね。どの宿泊場所からでも市電はアクセスが良さそうです。

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賢治さんが銀座に行ったとき、山手線はあったのか?

今の主要な鉄道路線の整備が大幅に進んだ時代です。
山手線は、1919年に東京まで開通した中央線と合わせて、中野(中央線)東京-品川-新宿-池袋-田端-上野の駅で、「の」字形で運転しています。
1925年になると秋葉原まで伸びていた東北本線と神田駅が結ばれ、東京-上野間の高架が完成し、ついに山手線が一つの円になり環状運転が開始されました。ああと5年で環状運転100周年です。意外と古くから環状でした。有楽町駅と新橋駅から歩けるので、「JR2駅最寄り案件」です。

私の予想。
1916年……目新しい東京駅(開業1914年)を見物しつつ京橋まで徒歩(京橋は東京駅から徒歩10分圏)
1919&1926年……延伸した山手線に乗り、新橋から徒歩。
賢治さんは新しもの好きさんなので、とりあえずこんな風に考えてみました。

前置きが長くなりました。
ということで、ナギノートは新橋から歩いていきます。

新橋駅汐留口からスタートします。銀座口でも可。SL広場がある日比谷口は逆ですのでご注意ください。旧新橋停車場に向かう途中に、いきなり気になるお店がありました。

香川・愛媛せとうち旬彩館。瀬戸内の旬をお届けする香川・愛媛せとうち旬彩館。人気の特産品の購入や、瀬戸内のおいしい食材を味わうことができます。

瀬戸内……なんとまぁ!ざっくりと広範囲な名称(笑)物産館です。愛媛の文字があるので、もしや大好きなあれがあるかと思い、いきなり本題と外れて寄り道。

みきゃんうどん脳が迎えてくれました!

自分の思わぬ一面。地域おこしを生業としているので、次々ゆるきゃらが量産される時代にあって、ちゃんと名前が出ます(笑)

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!イヨノ助さん&バリィさん

いたー!!バリィさん大好き♪来島海峡大橋(くるしまかいきょうおおはし)をイメージ したクラウンと腹巻のギャップがたまらまい、肥ったトリです。自虐で、バリィさんブランドの焼き鳥カレーが出ているのも微笑ましいです。元々、今治のタオルが好きなのに加えての今治の押し。いつか今治行ってみたいなぁ……と密かに思っています。

本題に戻ります。新橋から歩いた理由は、旧新橋停車場として、当時の駅が残っているからです。

旧新橋停車場。かつての日本の鉄道の起点。駅舎とゼロマイルポストが残っています。

1872年10月14日(明治5年9月12日)に日本最初の鉄道路線の起点として開業した新橋駅(初代)がこの駅です。1914年(大正3年)12月20日に新橋駅が汐留駅に。烏森駅が新橋駅になります。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により開業時からの駅舎は焼失してしまい、1934年(昭和9年)3月に鉄筋コンクリート2階建ての駅舎に建て替えられました。

……残念なことがわかってしまいました。
この美しき史跡は、宮沢賢治とは何の関係もない可能性が高いということです。
だからといって、この史跡の価値にはなんら関係ありません。旧新橋停車場は素晴らしいです。賢治さんの上京が始まってからは、「新橋駅」は今の場所です。
1919年だけは辛うじて「へぇ、ここが日本の鉄道の発祥かぁ……」と見物する可能性はありますが、それ以降の上京時は震災で焼失した後の仮駅舎。むむむぅ。

続けます。旧新橋停車場から道なりに真っすぐ。これが昭和通りです。
晴海通りと交差するところまで歩いていきます。この道沿い、進行方向:右を歩いていると伊達藩上屋敷跡とか佐久間象山塾跡があります。看板のみなので、注視しないと見つかりません。

佐久間象山塾跡、狩野画塾跡が並んでいます。その付近で昭和大通りの向かいを見ると、旧古宇田病院(現銀座ホウライビル)です。

賢治さんの足跡
・1919年(大正8年)1月23日 古宇田病院で叔母の見舞い

銀座ホウライビル。1階はタリーズです。

ここに賢治さんの母の末妹『京橋のコトさん』が入院していました。
コトさんは花巻銀行頭取瀬川弥右衛門(屋号:松屋)氏夫人。
彼女を見舞いにここに来ていました。
マップの右上に「1916京橋」とメモしてしまいましたが、
1916年の京橋行も、京橋のコトさんの見舞いに来たことのようです。
(参照:「賢治地理」収録『宮澤賢治の東京における足跡』)
1919年(大正8年)1月24日、書簡no.127に
「京橋コトさんから松屋の貞蔵さんがわきが手術で上京する知らせと、とし子の様子を尋ねる内容の葉書が来ていたので、昨日、病院に行って、とし子の様子を話して見舞もしてきた。」と出てきます。

この近くの銀座六丁目スクエアで月曜日だけ会えるカレー屋さん
「世界アトミ食堂」のカレーを食べたかったのです。(現代ナギノ事情)

アトミさんはキッチンカーでの移動販売なので、昼時のみ出現。
完売と共に閉店ですので、ナギノの銀座よりみちは11時半に照準をあわせているのです。それでは向かいます。

TLUNCH(とランチ)。ちょっとしたビルの空きスペースとフードトラックをマッチングするプラットフォーム。
定番のバターチキンが美味しいので、毎回2種盛りで「バターチキンとナニカ」。そして必ず一つは食べ逃して、次回はまた違う味になっているという……。通っている割に、全くメニュー制覇は進んでいないのです。

大倉山のカレー屋さんなのに、銀座で食べるナギノ……。

世界アトミ食堂さん。美味い。

満足したところで、100年前に戻ります。
佐久間象山塾跡を往復して昭和通りに戻り、晴海通り交差点へ。
ここは、歌舞伎座や築地本願寺が近いので、見た目的にも東京感満載。

綺麗になった歌舞伎座。

賢治さんの足跡
・1926年(大正15年)12月 歌舞伎座で立ち見

賢治さん、歌舞伎座では立ち見。
ところで、1926年の上京は12/24~30の滞在なのですが、12/25に大正天皇が崩御して昭和天皇が践祚。東京滞在の最中に大正から昭和になる一大事に遭遇しているのです。このことは賢治さんの旅程や心情に影響してないわけないですよね。のちほど調べてみませんとね。

さて、歌舞伎座のお向かい注目。

いわて銀河プラザ(いわてぎんがぷらざ)。岩手の物産館はここにあります。すごい場所で岩手はPR中。

大谷翔平。奥州市水沢出身。彼の活躍により「彼の実家の隣の家は親戚」「彼は遠縁」と自称する岩手県民増。

岩手県民でもここに寄って「お!」とテンション上がるのが
藤原養蜂場の「スズメバチウォーター」。
岩手にいる頃も、藤原養蜂場といえばスズメバチが瓶の中で漬け込まれてる印象でした。

食後の一本スズメバチ。精力がつくらしいのですが、味は、お線香を飲んでる感じ……。なんともいえない後味ですが……気分で疲労が飛んだ気がします。晴海通りを進むと、正面に築地本願寺が現れます。

私の最初の自力上京は、目的地がここだったので、築地本願寺に対する思いはひとしお。ですが、ここはグッとこらえて、先に築地小劇場跡に行きます。

賢治さんの足跡
・1926年(大正15年)12月 築地小劇場

みずほ銀行築地支店。ここに、築地小劇場のレリーフだけがあります。

1926年に賢治さんが来たときは、出来て2年。新しかったんですね。

羅須地人協会時代。
12/2~30頃、エスペラント語やチェロを習うために滞在していた年です。
季節は偶然一緒。
宮澤賢治全集(ISBN4-480-72839-2)によれば
「上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時頃まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、次に丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習をする、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓がそうである。上京20日間のうちに築地小劇場を二度見た。歌舞伎座の立ち見もした。(書簡no.221)」
この上京の間、かなりの自由行動をしている賢治さん。
高村光太郎訪問もあり、作家・詩人(文章の創作家)として生計を立てる模索が続いていたことをうかがわせます。
この流れで川崎に来た可能性があるので、ここ、川崎市民として調査中です。
このあとは築地本願寺にお参りして終了。

築地本願寺を参拝すると、参拝記念カードというものがいただけます。しかも、絵柄が毎月変わる。

今月のデザインは白虎でした。カッコイイ……四神をコンプリートしたい……!

築地本願寺を出ると、築地市場です。

市場は豊洲に移転しているのですが、観光客人気は変わらず。

すると、お向かいに公園があり、気になる石碑が。

これは……コンドルだ!

東京盲唖学校発祥の地/日本点字制定の地。ジョサイア・コンドル設計の校舎。

コンドル設計の校舎がここにあって、築地本願寺と斜向かいだったとは!すごい景色です!!(で、隣は市場。)

新橋演舞場を横に見ながら、銀座方面へ戻ります。
このあたり、橋の下は今は道路ですが、以前は川だったんだろうなぁ…という景色。

再びの旧古宇田病院。

最後に、銀座らしい銀座の写真を撮影したいと思います。こちら、戦前の絵葉書「東都名所 銀座通り」

戦前の 東都名所 銀座通り

同じ場所で撮影。

平成の 東都名所 銀座通り

お付き合いありがとうございました。次回の銀座は、8丁目で資生堂パーラー行きたいですね。

外部リンク

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