昨日、所用で銀座に行ったので「遂に資生堂パーラーに行ってみようか」と思って向かいました。
考えてみればそうなのかもしれませんが、50分待ち。
時間繰りが厳しかったので列に並んで待つことはできませんでした。
夕方4時。
友人とお喋りしながらだったら待てたなぁ…。
もしくは、本気でこのアイスクリームに出会いたければ、最初からここを目的に来なければいけなかったのかもしれません。
出典:資生堂パーラーのアイスクリーム
令和元年8月25日時点の価格:870円
アイスに添えてあるゴーフレット。
創業当時は四角いウエハースだったのではないかな?
実体験ベースで、ほうぼうのレストランで見かけた変化なのですが、
昭和時代に四角いウエハースだったものが、平成期に三角ゴーフレットになっています。
資生堂パーラーも同じ流れでは?
実は、私、資生堂パーラーのアイスクリームを食べたことが無いのです。
一番アイスを常食していた20代はハーゲンダッツ。今は店舗が無いのですが、この値段だと店舗に行ってパフェでしょ。
だから、資生堂パーラーのアイスクリーム、870円で1スクープ…高いなぁと思っております。
THE老舗。
おそらく当時はもっと高嶺の花だったことでしょう。
よく、「女工さんの半月分の給料」などと書かれているので。
賢治さんの生きていた当時のアイスクリーム事情としては、カップアイスが出回る前で、アイスクリームはレストランで食べるか自分で作るものでした。
アイスクリーム事情といえばこちらの本。
社団法人日本アイスクリーム協会が発行しています。
私、この本大好きなんです。
アイスクリームについて、成分やレシピ、周辺や歴史まで網羅されていて図版や写真も素敵なのです。
この本に、資生堂パーラーが銀座名物になったこと、魔法瓶が既に普及していたので、魔法瓶を下げて銀座までアイスクリームを買いに行く人がいたことなどが書かれています。
協会サイトの同じ項にはこう書かれています。
レストランでアイスクリームを食べる
明治8年(1875年)に東京・麹町の開新堂がアイスクリームを売り出し、風月堂、函館館もメニューにアイスクリームを加えます。明治35年(1902年)、東京・銀座の資生堂薬局(現在の資生堂)内にアメリカのドラッグストアを参考にしたソーダファウンテン(現在の資生堂パーラー)を併設し、アイスクリームとアイスクリームソーダの販売を始めました。
しかしアイスクリームは、25銭と庶民には高嶺の花の贅沢品でした。ところが、その頃、街では「一杯一銭」のアイスクリーム売りがいたことが「東京年中行事」に描かれています。
高嶺の花なんです。
けど、当時は卵と牛乳が入っている栄養食品としても一目置かれていました。
病気に悩む文豪にとっては、美味しい薬として身近な存在だったのかな?と思わせる文章を賢治作品以外でも見かけます。
賢治は『永訣の朝』の「天上のアイスクリーム」を筆頭に、手紙にも手帳にも「アイスクリーム」が出てきます。
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛(そうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりとした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・
・・・ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪ができたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのことばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
……で、ここまで書いておいてなんですが、
なんで「賢治は資生堂パーラーで食べた。資生堂パーラーでアイスクリーム食べてみればよかった。」につながったのか、ずばりのつながりの資料の証拠の羅列をできないのですが
(資料が多くて、今横にあるのは1931年の資料なので;)
いつの頃からか、自分の中で「賢治、資生堂パーラーでアイスを食べた」になっているのです。
最近ブログで書いた、妹の看病時代のアイスクリームは賢治が材料を買っているので資生堂パーラーのものではないのです。
けど、「当時のアイスクリーム好きが銀座ぶらぶらしてて資生堂パーラーに行かないわけがない!」だけじゃない資料がなんかあったような気がするんですよねぇ……
長々と資生堂パーラーと賢治さんのことを書きましたが、私はまたも食べ逃しました。
時間の都合で、築地本願寺のカフェでお茶することにしました。
築地本願寺といえば、お参りの度にいただける、月替わりのこちらのカードが楽しいです。なかなか、1年分をコンプリートできません。
築地本願寺カフェ Tsumugi
営業時間:8:00~21:00(年中無休)
人気「18品の朝ごはん」なのですが、朝食提供時間は8:00~10:30
築地のマークが入った、小ぶりなお饅頭をいただきながら、お茶で……もとい、アイスコーヒーで一息いれました。
1931年9月20日のアイスクリーム
賢治さんの手帳、通称「兄妹像手帳」によると1931年9月20日アイスクリーム食べました。20銭。レストラン価格です。
この日は水戸で下車して、夕方上野駅に着。タクシー異動で駿河台の宿に行き、荷ほどきして万世橋から吉祥寺に行った日です。弁当を2回買っているので、レストランでは食事をしてないのですが、タクシー代より前に記載されてるので上野に下車して早々、アイスクリーム食べてる?……精養軒?と推察できるメモです。
「賢治と東京アイスクリーム」については、また突き詰めてみたいと思います。
では、アトリエナギノ夏休み明けまして、本日より通常営業再開です。