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宮沢賢治が歩いた仙台を歩いてみた

ナギノの女子旅
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過去に宮沢賢治と仙台の展示を行った「仙台文学館」

2025年3月2日、賢治さんの仙台の足跡をまとめた資料があるとのことで、「仙台文学館」にやってきました。実は宮沢賢治さんは仙台をしばしば訪問しており、作品の中でも「センダード」という仙台をもじった架空の街を登場させています。

2004(H16)年の企画展示図録『開館5周年記念 宮沢賢治展inセンダード ~永久の未完成』の地図を複写していただきました。それでは、今から”賢治が歩いた仙台”を巡ります。

仙台のメインストリート「定禅寺通(じょうぜんじどおり)」

「西公園」に向かってケヤキの木が4列に植えられている定禅寺通を進みます。ここが仙台のメインストリート、賢治さんもここの通りを通った!のですが、シンボルのケヤキ並木は戦災復興計画の一環で植えられたもの。賢治さんの通った頃とは違う景色でしょう。

宮沢賢治さんが見学しにきた「東北産業博覧会」会場跡

宮沢賢治さんが1928(S3)年6月7日に水産館の加工品を見学した「東北産業博覧会」の会場が、ここ「西公園」です。

「東北産業博覧会」は川向こうの仙台二高も会場でした。けっこう離れています。向こうが第一会場、こちらが第二会場、会期中はケーブルカーで会場同士を結んでいました。

再び定禅寺通、中の歩道を歩きます。

さて、勾当台公園駅手前の国分町通。

宮沢賢治さんも来ていた仙台随一の繁華街です。夜の街なので、今の時間はシャッターが目立ちます。

宮沢賢治兄弟の写真を撮影した「阿部写真館」

1925(T14)年、宮澤賢治さん29歳。弟清六さんの仙台演習を訪問して一緒に記念撮影をしています。有名な軍服姿の弟との写真です。写真撮影した阿部写真館は建物は新しいですが、当時と同じ場所で営業しています。

国分町を出ましたが、同じ通りにあったという丸善は跡形もありませんでした。ここまで街が変わっていると、跡を探すのも難しいですね。

宮沢賢治さんが東北産業博覧会の帰りに見学した「東北帝国大学」

1928(S3)年6月7日、宮沢賢治さんは東北産業博覧会を見た後、見学に来た東北帝国大学、「東北大学」に名称を変えて今も同じ場所にあります。

この辺りは昔は学生街で古本屋、白衣屋、帽子屋等の商店が軒を連ねていたそう。今はビジネスの中心街。歩いてみると、空襲で街が焼かれたためか、古い建物というのが残っていない様子。

「センダード」の駅

仙台駅に戻ってきました。面積が日本最大規模となるペデストリアンデッキが印象的です。

賢治さんが来た頃の仙台駅

賢治さんが来た頃の様子は、wikipediaに掲載された画像から伺うことができます。

中央に2代目仙台駅舎、左側に宮城電気鉄道の駅舎、手前側の道に仙台市電の線路が見える(引用:wikipediaより)
昭和初期の仙台駅構内(引用:wikipediaより)
日本初の地下ホーム 宮城電気鉄道・仙台駅の地下ホーム(引用:wikipediaより)
1930年(昭和5年)頃の芭蕉の辻。芭蕉の辻駅が見える。(引用:wikipediaより)

SLが走っていて転車台があって、電車が走っていて、”日本初”の地下ホームがある。賢治さんの足跡を追いかけているとしばしば遭遇する鉄道関連の「日本初」、ここでもです。地下ホームは、ニューヨーク市地下鉄の77丁目駅を模したモダンで華やかなものでした。

愛宕上杉通を直進。

宮沢賢治さんが出張で訪れた、仙台で学術振興を行っていた地主「斎藤報恩会」

錦町公園に着きました。1931(昭和6)年に宮沢賢治さんが来た斎藤報恩会は、今はNHK仙台放送局のようです。斎藤報恩会は、1933(S8)年には白亜の壮麗な建物を建造、日本で2番目となる自然史系博物館「齋藤報恩会自然史博物館」も開設したとのこと。

宮沢賢治さんが東北砕石工場の出張で訪れた、「宮城県庁」

通りの向こうに宮城県庁。こちらも1931(昭和6)年の出張で訪れています。

夜の国分町。昼間とは違って、お店が開いて賑やかです。

賢治もベーブルースも泊まった「境屋旅館」

宮沢賢治さんが1912(M45)年5月29日に盛岡中学の修学旅行で宿泊した「境屋旅館」の跡。目印はNTTです。電話局の場所は変わっていません。

こちらが「境屋旅館」の跡地です。現在はホテルパールシティが建っています。境屋旅館時代には1934(S9)年にベーブルース一行も宿泊したとのこと。

駅前に戻ってきました。高層ビルAER(アエル)です。

AER、商業棟には「丸善」が入っています。今の仙台の丸善の場所はこちらです。

宮沢賢治が歩いた仙台を歩いてみて

仙台は、1945年(S20年)7月10日、仙台空襲があり焦土と化しています。賢治さんの時代は戦前、私たちは戦後で、賢治さんの見た仙台の姿を想像することは難しくなっています。それでも、岩手に育った人にとって、今も仙台は「東北の中核都市」であり「身近な都会」です。「知的好奇心をくすぐられる文化の香り高い街・仙台」は時代を経てもその立ち位置は変わりません。街を歩きながら、今も「東北で先を行く街」としての仙台を感じることができました。

宮沢賢治と仙台

宮沢賢治、生涯の旅行行動のまとめ<全国版>

以前に宮沢賢治さんの旅行行動をまとめ、そこに「修学旅行」や「購入」「出張」を記載していました。しかし、仙台には「旅行」ではない「友人や弟への面会」での訪問がありました。

「開館5周年記念 宮沢賢治展inセンダード ~永久の未完成」より「賢治が歩いた仙台」

  1. 仙台駅:何度も仙台を訪れた賢治。駅で書いた書簡も少なくない。駅はあこがれの街「センダード」の象徴とも言える。
    <リンク:「センダード」の駅
  2. 宮城郡農会:現在の原町にあった。1931年(昭和6)年5月5日、5月11日に、東北砕石工場の出張で訪れた。
  3. 旅館泉館:1931(昭和6)4月〜9月の砕石工場の出張の際の常宿。
  4. 加藤謙次郎宅:1931(昭和6)年の9月19日、砕石工場の出張の際、訪問する。この翌日東京へ発つが、発熱して倒れた。
  5. 丸善:1918(大正7)年6月9日に洋書を購入している。賢治はこれ以前にも書籍の購入の問い合わせなどをしている。
  6. 宮城県庁:1931(昭和6)年の4月〜9月に砕石工場の出張で度々訪れた。
    <リンク:宮沢賢治さんが東北砕石工場の出張で訪れた、「宮城県庁」
  7. 東北帝国大学医学部附属病院:1923(大正12)年から1924(大正13)年にかけて、農学校の同僚、奥寺五郎の見舞いに訪れた。
  8. 斎藤報恩会:1931(昭和6)年の5月11日に砕石工場の出張で訪れた。賢治は小牛田の斎藤報恩会をよくたずねており、その関係で立ち寄ったと思われる。
    <リンク:宮沢賢治さんが出張で訪れた、仙台で学術振興を行っていた地主「斎藤報恩会」
  9. 東北産業博覧会:1928(昭和3)年6月7日に水産館の加工品を詳しく見学し、父への書簡で報告している。
    <リンク:宮沢賢治さんが見学しにきた「東北産業博覧会」会場跡
  10. 東北帝国大学:1928(昭和3)年6月7日、東北産業博覧会を見た後、構内を見学した。
    <リンク:宮沢賢治さんが東北産業博覧会の帰りに見学した「東北帝国大学」
  11. 境屋旅館:1912(明治45)年5月29日に盛岡中学の修学旅行で訪れた。
    <リンク:賢治もベーブルースも泊まった「境屋旅館」
  12. 阿部写真館:1925(大正14)年10月下旬、仙台での大演習に参加していた弟の清六を訪ね、2人で記念撮影をした。
    <リンク:宮沢賢治兄弟の写真を撮影した「阿部写真館」
  13. 古書店文化堂:1931(昭和6)年9月19日に砕石工場の出張で仙台を訪れた時に立ち寄った。盛岡中学の先輩、加藤謙次郎がここで賢治と再会したと回想している。東北産業博覧会の後に立ち寄って浮世絵を見たのもここではないかと推測されている。