2024年9月11日、浅草にやってきました!
9月なのに気温は30℃超え…35℃いってるんじゃないかしら。着いたばかりですが、まずは休憩します。
やなぎ茶屋浅草
浅草は観光客の人数もすごいのですが、お店も数があるので、探せば並ばずに入れる店が見つかります。
今日の宇治抹茶かき氷は、抹茶の泡が乗っています。意外とさっぱりした泡で氷に合い、中に空洞がある氷の盛り方だったのであっさり完食できました。では、元気をチャージしたので出発!
宮沢賢治、修学旅行の往路の自由行動で来た「浅草公園」
宮沢賢治さん、ここに来ているのですが、今日は入り口だけで。
浅草寺については、過去のレポートをどうぞ。
賢治さんが来た時、このエリアは浅草寺・伝法院・仲見世・奥山地区、浅草4区・6区を全部合わせて「浅草公園」という名称でした。
本堂を横切って奥山門から出ます。ここからが「奥山地区」です。
宮沢賢治がメリーゴーランドに乗った「木馬館」
ここが「木馬館」です。実は、この場所ではその時代ごとに水族館や昆虫館をやっていて、今は「木馬館」という名前の大衆演劇場になっています。賢治さんが浅草に来て、短歌を詠んだ頃は、名称が「昆虫館」でした。2階建て昆虫館の1階部分にメリーゴーランドがあったようです。
浅草の木馬に乗りて哂ひつゝ夜汽車をまてどこゝろまぎれず
夜汽車は上野発でしょうか。ここから上野駅までは、道具屋が立ち並ぶ合羽橋を通って歩ける距離です。
大正期・浅草のシンボル「浅草十二階(あさくさじゅうにかい)」こと凌雲閣(りょううんかく)にも行ってみよう!
ホッピー通りを右折して、「花やしき」がある通りに出ます。
今はOKスーパーになっているこの場所、かつて浅草十二階が建っていたときの、敷地の入口です。本体はもうちょい奥。
ここが浅草十二階の跡地です。左のお店と右の店、それぞれ遺構が出ています。さて、直進して浅草十二階の裏手「奥浅草」に入ります
奥浅草エリア
千束通りに入りました。「奥浅草」と呼ばれるエリアです。しばし商店街を歩きます。先ほどまでの混み具合が嘘のように、静かな通りです。
案内板に「鷲神社(おおとりじんじゃ)」の文字を見つけてびっくり!「酉の市」発祥の神社ということで、「うちは酉の市は絶対ここ!」と言っている仕事仲間がいるのです。ここでしたか。そして、立地は「吉原遊郭」と背中合わせ、何やら意味ありげな立地です。
「なでおかめ」という大きなおかめの木像があり、撫でるとご利益を授かれるそう。
おでこをなでれば賢くなり 目をなでれば先見の明が効き 鼻をなでれば金運がつく 向かって右の頬をなでれば恋愛成就 左の頬をなでれば健康に 口をなでれば災いを防ぎ 顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う
鷲神社「なでおかめ」
参拝者が一人のタイミングでしたので、しっかり全部撫でさせていただきました。
江戸幕府公認の「吉原遊廓」があった場所へ
鷲神社から徒歩3分、「新吉原花園池(弁天池)跡」があります。関東大震災の火災の中、逃げ場のない遊女たちが弁天池に殺到し500人以上が折り重なるように息絶えた場所です。
周囲の開発で池はかなり縮小されていますが、この場所では地元の方の手厚い鎮魂を感じられる静かな祈りの場になっています。
弁天池から150m、急なカーブを曲がったところに「吉原神社」があります。ここから「吉原遊廓」のエリアです。
日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)にあった吉原遊廓が「明暦の大火(めいれきのたいか)」で焼失し、ここに移動してきたことから、正式名称は「新吉原」。遊郭吉原の入り口は、真っ直ぐな通りの向こうの「大門」だけが出入り口になるので、一番奥にあたるここは、弁天池に遮られて外界に出られない場所だったのでしょう。
稲本楼!?最高級クラスの楼閣の名前が、さっそく登場してびっくり。ビジネスホテルです。吉原は現在でも日本最大の風俗街とのことですが、真ん中の通りにその気配はなく、名称や説明看板でしか残されていません。
あ、脇道は風俗街ですね。最高級クラスの遊郭「大文字楼」があった場所は、今は公園です。
吉原の入り口「吉原大門」跡、今は控え目な二本の柱です。ここが吉原遊郭の正面玄関で、治安目的と遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はここ1箇所でした。
大門を出て外界。右の先の見えない道が、かつてお客さんたちが向かってきた道です。左は、当時は道ではなく「お歯黒溝(どぶ)」と呼ばれる大溝でした。この溝が吉原をぐるりと囲んでいるので、大門からしか出入りできないんですね。
溝だった場所を先ほどの公園に向かって歩いていきます。途中で腰の高さほどの石垣が。これは、当時から残っているものだそうです。
先程の公園です。大文字桜も嵩上げした上に建っていました。溝があってさらに嵩上げ、無傷での脱走も身投げも困難な微妙な高さです。
振り返ると、奥の大門のあるあたりが高くなっています。道路がお歯黒溝の幅です。徳川家康から始まって第二次世界大戦後にGHQの手が入るまで存続し続けていた公認の遊郭が「吉原」でした。
三ノ輪駅(みのわえき)
吉原まで来ると、浅草駅も入谷駅も離れているので、住宅街を抜けて三ノ輪駅から帰ります。