誕生日。自分にプレゼントするならば何をしますか?私は、素敵な宝石も良いけれど、親しい人とちょっと先の話をしながら、美味しいビールを飲むのが大好きです。決して金塊が嫌いなわけではないので、気分ですが(笑)
研究の道に入ってから、恩師のありがたみを感じることばかりなので、記憶を辿りながら献杯しにいくことにしました。その思い出の場所周辺も賢治さんゆかりの場所なのです。
スタートは東京メトロ銀座線神田駅。
これが萬世橋駅(まんせいばしえき)です。
ここに1912年(明治45年)4月1日、今の東京駅にそっくりの豪華な駅が誕生。辰野金吾が設計。その頃、東京駅はまだ無くて、ここが終点です。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で屋根と内部を焼失。基礎部分を生かして再建した2代目。1936年(昭和11年)、鉄道博物館として鉄筋コンクリートビルに建て替えられた建物の一部分で営業していた3代目。1943年(昭和18年)11月1日に営業休止。
萬世橋駅31年の歴史は世情を反映してドラマチックです。シンボルだった廣瀬中佐の像は、1947年(昭和22年)敗戦で東京都が撤去。鉄道博物館も2006年(平成18年)5月14日に閉館、大宮に移転し、かつての萬世橋駅の賑わいは分散してしまいました。
賢治さん27歳の家出時代まで6回の上京時は初代駅舎。30歳からの3回の上京が2代目駅舎になります。「なんた、たまげだー」と「なんたら、いだましねぇ」を体感していることになります。
2013年(平成25年)商業施設としてマーチエキュート神田万世橋が誕生、今に至ります。赤レンガの100年アーチを生かした施設なので、往時の面影を感じることができます。
ツリーが飾られていて、雰囲気が良い感じ。
元ホームに向かう階段。
元ホーム。
元萬世橋駅ホーム……と、中央線の車両通過。
一階部分はお店やレンタサイクルなど。
……ここから新宿まで自転車で行けるんだ……ちょっとビックリ。
ワテラスを横切ると目の前はすぐニコライ堂。 ジョサイア・コンドル設計の日本最大級のビザンティン様式の教会建築。 萬世橋駅ができてから関東大震災までの約10年、かなり目立つ師弟の建築が向かい合って建っていたことになります。
風景印アングル。門の文字はヘブライ語。“いと高きところには、光栄神に帰す”。2891年(明治24年)2月に竣工。駿河台にあり、明治中期は開けていたので、遠方からもドームが見えていました。
関東大震災で鐘楼が倒壊してドームを破壊。内部の多くを焼失。 その経緯から1929年(昭和4年)に再建された時に鐘楼が低くなっています。
先生と待ち合わせは、いつも御茶ノ水駅。JRと地下鉄が乗り入れ。
男坂は急すぎて危ないので、いつもは降りませんでした。今日は降りてみよう。すごい角度です。滑落注意。
直進すると、ビルの間に趣のある建物。
白山通りを横切って、コンビニのすぐ裏に賢治さんの8歳下の弟が通っていた学校があります。
弟清六さんが通っていた日本最古の予備校です。
1922年(大正11年)3月に岩手の盛岡中学卒業。11月30日に上京し、本郷竜田町に下宿して研数学館で学びます。翌年の3月に 東京高等工業学校を受験するも不合格。帰郷して家業に従事することになります。
その受験直前、 1923年(大正12年)1月。賢治さんが上京してきて、弟に東京社婦人画報編集部に原稿の持ち込みを依頼します。……受験生にお願いしちゃダメだよ……。
白山通りに戻って、神保町駅に向かいます。
誠心堂書店の建物は1916年(大正5年)に賢治さんが夏期講習で通っていた東京独逸学院です。7/30~9/7北宸館、栄屋旅館に宿泊しながら通っていました。
この時期に、ニコライ堂、萬世橋停車場でも短歌を詠んでいます。 以上が賢治さんが20歳の時に東京で過ごした思い出のエリアになります。1ヵ月ちょっとの短期留学といった感じでしょうか。
神保町駅に突き当り、左を見ると角の2階にランチョンというレストランがあります。
ビヤホール・洋食ランチョン
美味しそうな雰囲気が出ているおじさんの人形に誘われて、このすぐ裏に旧日活館・現タキイ東京ビルがあるのに、見に行かずにお店に入ってしまいました…。
ランチョンは二階。階段で上がります。踊り場に写真があり、1909年(明治42年)創業とあります。
賢治さんが表の通りを歩いていた頃は、この建物でしょうか。
御茶ノ水~神保町。楽しい思い出の町です。
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改訂版 東京よりみちノート ([バラエティ])
今回のノートは、ひとり東京さんぽ withよりみちノート (よりみちムック)に付録としてついていた、ちょっとだけ範囲の違うマップの東京よりみちノートです。