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池袋と賢治

宮沢賢治と東京
池袋~雑司が谷のMAPです。池袋駅から雑司が谷駅まで10分くらいのようでしたが、早稲田の穴八幡に御用がありましたので、副都心線雑司ヶ谷駅からスタートしました。

ここのエリアの賢治さんポイントは日本女子大学です。1918年(大正7年)、日本女子大に在学中の妹トシが体調を崩して入院。賢治さんは母と一緒に上京して妹の看病をします。

看病というと、どこか暗く陰惨なイメージが伴いますが、賢治さんの場合は妹の看病はそれとして(むしろ口実に?)、東京のあちらこちらに出掛けているので、この時期は「雑司ヶ谷を拠点に散策・活動していた」と言えます。

卒業を目前とした年の暮れ、トシさんも病状こそ辛いものの、晩年の有名すぎる死の別れにはまだ遠い状態でした。

雑司が谷駅の案内表示です。下調べ無しでも見所がわかりやすくていいですね。
初見の感想。宗教関連が多いですね。
明治後期の建物がそのまま残って公開されているようですので、こちらに寄ってみましょう。

駅から一歩外に出ると、視界は住宅と線路のみ。地図で見たような史跡が見当たらず「あれ?」と思ったのですが、視界に飛び込んできた絵で疑問解消。

なるほど。私は「回れ右して後ろへ歩いて下さい」ですね。
東京さくらトラム。路面電車です。人の往来がほとんどなくて、見所が多そうなのに観光地というよりもまるっきり生活地です。

低層な住宅の間を、送迎のママチャリとすれ違うのみで、最初の目的地に到着しました。

雑司が谷旧宣教師館。旧マッケーレブ邸。
所在地:東京都豊島区雑司ヶ谷1-25-5(電話03-3985-4081)
建築年:1907年(明治40年)
設計者:J・M・マッケーレブ 構造:木造2階建
明治40年(1907年)に来日したアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建設。豊島区内に現存する最古の近代洋風建築です。東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものです。1941年にマッケーレブが離日したあと、宣教師館は個人所有となっていましたが、1982年に売却された折、住民の保存運動により豊島区が購入し、現在に至っています。
東京都、近代的な街中に、不意に歴史的建造物の個人宅が残っているのですごいと思います。
入館無料です。スリッパに履き替えてお邪魔します。
こちらは現代の資料室。
当時の周辺ジオラマ。緑が多いです。当たり前と言えば当たり前なのですが、道路が舗装されていません。雨の日はドロッドロになって大変そうです。

ジオラマのそばにあった周辺地図に「日本女子大学寄宿舎」の文字。旧マッケーレブ邸に来たことで、当時の空気を感じられてテンションが上がります。

敷地内にあったマッケーレブ邸デザインタイル。同じデザインのスタンプが入り口に設置してあったのですが、残念ながらインクが乾いていて、押してみたものの気のせい程度の仕上がりに。

マッケーレブ邸を出て、住宅街の続き。まっすぐ進んで右に曲がると日本女子大の寮です。

じゃん!

女子大の寮という響きとは違う感じの雰囲気の建物が出現してびっくり。本当にここなんでしょうか………?

セキュリティーの感じからするとここで合っていそうですが………

塀を回り込んでくると日本女子大学寮と書かれた入り口に来ました。全く外から伺うことができません。さすが女子寮です。
人生、今までゆるゆるとさすらってきましたが、ここに来て初めて壁を感じております。

トシさん在籍の1918年は責善寮、2018年の現在は潜心寮という名称です。
高等学校時代の花巻でのスキャンダルからの逃避入学、過去を隠して成績優秀者として過ごした4年、軽井沢でノーベル賞詩人タゴールの講義を受け、病で帰郷、『自省録』を執筆して後、母校で師範となり、再びの病、夭逝……という彼女の生涯で、ここでの4年間はもっとスポットが当たっても良さそうなのですが、調査のハードルの高さが情報の無さの一因かもしれませんね。準備と作戦が必要そうなので、本日は撤退。

寮のセキュリティーも厳しいということは、本体も厳しいだろうなぁ……と思いつつ、日本女子大に向かいます。地図上、不忍通り挟んで向かいですが、間に民家と小路。町名の由来板や猫を眺めつつ歩きます。

日本女子大。裏口……?
表門に向かう途中の塀は、なにやら伝統ある学び舎の雰囲気があります。

交差点名が「日本女子大前」なので、ここが表門でしょうか。

部外者に女子大を知るのは難しい…ということを理解しました。

待ち合わせの穴八幡に向かいます。

しばし歩いたところで、複数の案内板が立っている場所に行き当たりました。豊坂。一体なにをこんなに主張しているのでしょう……?

豊坂(とよさか)。目白台に住んだ大町桂月(おおまちけいげつ)は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。「目白台に上れば、女子大学校ほど近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴(えびちゃばかま)をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」

飲料水について重要情報が書かれているようにも思うのですが、男女分かれの描写のインパクトが強くて、この看板の主意が汲み取れません。
とりあえず、坂の上は女子、坂の下は男子ということはわかりました。あとは、神田川の水源が井之頭池と書いてあります。吉祥寺のスワンボートと桜が有名な井の頭公園、園内に「お茶の水」という水源がありました。あの水がここまで流れてきているんですね。

せっかくなので、日本女子大と対で書かれていた男子の名所、早稲田大学を通ります。

現在早稲田大学は男子校ではありませんが、この開かれた感じは男子に端を発するからでしょうか。

出たところに穴八幡です。

目的は達成しましたが、観光はもう少し続きます。

穴八幡宮でいただける一陽来復の御守り。新年の儀式をすることで、お金がよく回ります。浮き草家業なので、よろしくお願い申し上げます。

ここも階段を昇った先に鎮座しております。なんとなく階段を昇るというのは有難味が増します。

当然のように行列なので、待ち合わせた友人とお金の話などをしながら楽しく並びます。無事にお札をお返しし、新しいお札をいただいたら、この後どこかに行こうか?という話に。駅に戻るより、近くにバス停があるので、このまま湯島天神に行くことになりました。

上69関口一丁目行。早稲田バス停から湯島三丁目バス停まで直通25分。

THE湯島天神です。

さすが、受験祈願の聖地。願いを一身に引き受けています。

倒れるんじゃないか;という絵馬の量ですが、そんな縁起の悪いことにはならないように、しっかりと鉄骨で組んでいるところに、神社側の気合を感じます。
奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)。人探しや迷子を捜すときの伝言板。通称「迷子石」です。江戸末期から明治中期は迷子が深刻な社会問題で、各地の社寺や盛り場にこの石柱が建てられていました。
臥牛。道真使いの牛ヾ(・ω・*)なでなで。
そして白梅。

帰ります……をっと。「神を祀る場所=一段高い」という思考があるので、目の前に高い建物があると面食らいます。

上野公園を横切って、上野駅から帰ることにします。

池のほとりに、まんまる可愛い……ユリカモメ?逃げないでね~写真撮るから……と、構えると

こっちを向いてくれました。可愛い~♪この後、ますます接近されて、私のほうがビックリしました;

これは……蓮の池かな?こんなに一面蓮ならば、どんなにか夏は見事なことでしょう!

由緒ありそうな趣ある建物と松を発見。

歌川広重も描いてる名所江戸百景『上野清水堂不忍ノ池(うえのきよみずどうしのばずのいけ)』の場所です。

上野公園、ヨハネス・フェルメール『真珠の耳飾りの少女』が公開中で行列がものすごいことになっておりました……美術館と別の場所に行列ができていたので、別館公開だったのかな?

東京で何か美味しいものでも買って帰ろうと思ったのですが、友人にリサーチしたところ、今「東京で美味しいもの」で名前が挙がったのは『PRESS BUTTER SAND プレスバターサンド』。それは……川崎駅で「東京で行列のおみやげ」と書かれていたお菓子ですね。

期間限定で川崎駅に出店中だったので、川崎で買いました。

終わりの後日談

穴八幡宮の一陽来復御守りは数日置かれたのち、節分の日の夜中に無事に設置。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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今回のノートは、ひとり東京さんぽ withよりみちノート (よりみちムック)に付録としてついていた、ちょっとだけ範囲の違うマップの東京よりみちノートです。

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